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2020年8月30日日曜日

上田敏雄 ホームページ・年譜更新

上田敏雄ホームページのバージョンアップを行いました。

また、年譜を更新しました。

なお、慶応義塾大学予科入学年については、証跡となる文書は見つかっていないため、
参考文献(森川信夫、2006、『やまぐちの文学者たち』、やまぐち文学回廊構想推進協議会 )をもとに、大正11年(1922)としていますが、山本博信 氏より諸説あると伺っております。

なお、慶応義塾大学卒業年については、卒業証書(原本)より、昭和2年(1927年)であることを確認しています。



2019年5月12日日曜日

上田敏雄 著作リスト更新

山本氏からの情報に基づき、ホームページの作品一覧リストを追加更新いたしました。
引き続きリストの精査に努めたいと思います。


<追加更新>
発行年月 作品名 詩誌名・書籍名(巻号、年月)
194104 「燃焼する水族館」 『新領土詩集』
195009 「駱駝よ」 『駱駝』4号
195011 「樫よ」 『駱駝』5号(昭和25年11月20日)
195106 「君の手に」『駱駝』8号(昭和26年6月)
195107 「雉子」 『現代山口懸詩選』一九五一年版 磯永秀雄編
195107 「強い男性の」『駱駝』9号(昭和26年7月)
195112 「それは石の獅子の・・・」『Doline』創刊号
195202 「我らの生命に變れ」『Doline』2号
195202 「猫の女よ」『駱駝』14号(昭和27年2月)
195208 「樹々は嵐を呼べ」注:未刊詩集『眞珠の戦士』より『日本詩人全集』第六巻昭和篇(1)
195208 「混乱した風景を」注:未刊詩集『眞珠の戦士』より『日本詩人全集』第六巻昭和篇(1)
195210 「夜の渦巻に」 『埴輪』創刊号
195211 「證」 『エスポワール』2号
195212 「シガレットの女よ」『DEMAIN』2 
195212 「あの黒く大きく亂れた波頭は・・・」『駱駝』22号(昭和27年12月)
195301 「蝶よ 君を締めあげる鎖によって」『駱駝』23号(昭和28年1月)
195303 「燃え墜ちた」『駱駝』24号(昭和28年3月)
195310 「朝の合唱」『駱駝』29号(昭和28年10月)
195401 「磔刑圖」『DEMAIN』4
195406 「自轉車」『ぎんなん 創刊号』
195409 「野師」『ぎんなん 2号』
195412 「ほしがあらわれた?」『ぎんなん 3号』
195505 「寂しい人たち」『DEMAIN』7
195607 「アダムの歴史のために」『DEMAIN』8
195611 「画布の台風 」 『詩學 11-13』
195701 「Current Topics ー<人類+α>の思想についてー」『DEMAIN』9(1957年1月20日)
196112 「別の美学II -アイコンとイエス・キリストの対極の研究ー」『DEMAIN』10(1957年8月15日)
195711 「Holy Communion」 『詩学」(昭和32年12月)
1958xx 「別の美学 III -虚無と恩寵ー」『DEMAIN No.11』
195909 「聖霊 -Essay on Monad ー」『詩学」(昭和34年9月)
196303 「労働者の肖像 Essay on the City of Man Neo Surrealism Manifestist」『駱駝』86号(昭和38年3月)
196409 「讃美歌のためのアルゴ The Letter to the Romans」『THE HIBARIBUE 24』
196411 「意味論 -宗教対藝術・ゲロンチョンを媒介としてー」『宇部工業高等専門学校研究報告』第1号
196510 「Mr. Bloom's Day ージョイス研究ー」 『宇部工業高等専門学校研究報告』第2号
196511 「讃美歌のためのアルゴ」『駱駝』100号記念号(昭和40年11月)
196703 「討たれた天使/判じ絵」『宇部高専第一期生卒業文集 『友』』
196803 「マリア像/判じ絵」 『宇部高専第二期生卒業文集 『友』』
196903 「霊の狩猟/判じ絵」 『宇部高専第三期生卒業文集 『友』』
196901 「歌のこころ」注:コラムに寄せた一文『宇部高専 学校だより』
197204 「人魚の唄※GENESIS・赤の四角※」『中国詩集1972』(1972年4月20日)
197406 「教会芸術」『詩学』6月号 ※「詩人と詩と思想」特集号
197505 「腹腹時計」『瀬戸内海詩集』1975年版
197607 「冬」<1925年新人賞再掲> 『詩学 31-7』

2019年3月17日日曜日

2019年3月16日土曜日

宇部高専の校歌誕生にまつわるエピソード


2019年は上田敏雄に関するイベントイヤーである。

公益財団法人山口県ひとづくり財団が1月から3月にかけて全3回の講座「山口のモダニスト上田敏雄」を開催中。また、4月から7月にかけては、中原中也記念館が「企画展 沸騰する精神ーー上田敏雄」を開催予定である。

私は山口県に何度も足を運ぶことは難しく、遠くから見守っている。

そんな折、ふと宇部高専のホームページを覗いてみたところ、アップデートされており、校歌の由来と校歌の誕生にまつわるエピソードが掲載されていた。

『世紀の花環 友よ担わん』には、世紀=時代から花を贈られるように努力する、そしてそれを友と共に担えるよう日々努力しなさい、との意が込められています。
え、そうなの?初耳である。やはり、意図を知ることができるのは嬉しい。

校歌を読み、最も違和感を感じたのは、2番の「男の子の生命 友よそそがん」。
高専の女子学生の割合も高くなっているはずであり、なんだか申し訳ない気持ちがする。

おじいちゃん、女の子も英語や科学技術を学びますよ、と伝えたくなる。

祖父は女子も勉学に励み自立することを奨励していたと聞いているが?
そもそもこの文章は、上田敏雄らしからぬようにも思える。

続けて「校歌の誕生にまつわるエピソード」ページを読むと、作詞途中の直筆原稿が掲載されており、最終的な歌詞とはかなり違うものである。
かつ「男の子の生命 友よそそがん」などと書かれてはいない。

上田先生の作品は、第1回の委員会の意見を十分に汲みとって大幅に手を加え装を新たにしたものになっていた。それはいわば原作を母体として教職員学生の英知を結集して練り上げられたものになっていたといえよう。
歌詞は上田敏雄が変えただけではなく、大勢の方の意見を結集したものだったようだ。

悩ましい作業だったことと想像するが、完成した際にはきっと嬉しかったであろう。




2016年8月15日月曜日

鶴岡善久の「上田敏雄の戦中戦後」

 毎年8月6日と8月15日は、戦時下を生きた祖父母達について思いをはせる機会をもたらす。

 今日もまた上田敏雄の追悼特集が組まれた『歴象 98』の鶴岡義久氏の「上田敏雄の戦中戦後」を読み返したので、その一部をここに共有しておきたい。

 上田敏雄はいわゆる戦争詩を一篇も書かなかった。これはきわめて重要なことである。
 上田敏雄の詩に関して一文を求められたとき、ぼくはとっさに上田敏雄の戦中のことを考えた。上田敏雄の戦争詩についてぼくの記憶がなかったからである。手元の二百冊をこえる戦争詩関係の資料に全部当たってみた。そこにはいわゆるモダニストと称されていた、村野史郎、安西冬衛、北園克衛らをはじめとするあらゆる代表的な詩人の激烈な戦争詩があった。わが敬愛する滝口修造ですら、悪名高き「辻詩集」に名を連ねている。(むろん滝口修造はいかにも苦しげだしそれを戦争詩と呼ぶことはためらわれるのだが。)その「辻詩集」にも上田敏雄の名前は見当たらない。ぼくはさらに、戦争詩についてはぼくの「太平洋戦争下の詩と思想」をはるかに上廻る詳細なデータに、裏づけられた桜本富雄の「詩人と戦争」、「詩人と責任」の労作にも当たってみた。ここにも上田敏雄の書いた戦争詩の報告は見出せなかった。ぼくは今まで何回か上田敏雄論を書いてきたが、うかつにもこの点を見落としてきた。これは重大な失態といわねばなるまい。ぼくはいちど上田敏雄本人にも会っている。生きているうちになぜ戦争詩を書かなかったかと、これはどうしても問うてみるべきであったと、氏の死を知らされて悔むばかりである。上田敏雄のシュルレアリスム理解については、ぼくはいままでずっと否定的な見解をとり続けてきた。しかし、戦争詩からまったくのがれえたのが西脇順三郎と上田敏雄のたった二人の詩人のみであったことを考えれば、この二人こそ日本のシュルレアリスムの一側面を、二人ながらにシュルレアリスムを逸脱する形で、なを充全に体現した詩人であったのだといえなくもない。 
 上田敏雄がシュルレアリスムの精神を根拠にして戦争詩を否定したのかどうか、ぼくはそれを証明する資料に恵まれていない。しかしなにが上田敏雄をしてそうさせたかは別にして、当時戦争詩を一切書かず沈黙を守り切った事実は、今後もっと注目されねばならないと思う。 <以後略> 
私は、現在この鶴岡氏の疑問に関して追加する情報を持っていないことをここに付記する。私は祖父母が生きているうちに戦争について直接聞いたことがなく、また、私が母に聞いた範囲では、母も祖父母からこの件について聞いたことはないそうである。

 本題からずれるが、個人的な話をすれば、直接言葉で伝えられようが伝えられまいが、先人の生き様を想い、自分の生き方にどう活かすのかが重要だと思っている。山口に居た両親は広島に原爆が投下された時を子供ながらに覚えており、母は東京の空襲も覚えており、私に伝えた。「次の世代に伝えていくことが大切」だと言われるが、伝える目的は、伝えられた私達の世代が行動に活かすためであろう。

2015年10月25日日曜日

上田敏雄の著作リスト変更(修正)

ホームページの上田敏雄著作リストの下記作品名を修正しましたので、お知らせします。

修正前:
192909「詩四篇」『文芸レビュー』(昭和4年9月) 

修正後:
192909A.B.C『文芸レビュー』(昭和4年9月) 

Twitterでご連絡いただいた内容に応じて、修正をかけました。
自身による初稿の確認は、まだ出来ておりません。

確認作業は現在遅々として進まない状態ですが、今後ある段階に至った際は、
原文の確認ができた作品とそうでないものは明確に示したいと思っております。

ご理解、ご協力のほど、よろしくお願いいたします。ありがとうございました。

2015年7月11日土曜日

「日本超現実主義詩論」読後

数週間前、上田敏雄の「日本超現実主義詩論」が載っている『詩と詩論』を手にした。
読後感はショック、そう、正直にショックという単語が脳裏に浮かんだ。

「此の三千大千世界の百億の日月、<略>、シューランガマスートラの中に広く説くが如し。」と
始まる長文。続く詩論を読破する前に、私の頭の中に般若心経が流れてきた。

その後、子供の頃に父方の祖母から推薦された本、倉田百三の『出家とその弟子』を読んだ。それから、下記の本も読んだ。

 『「意識」とは何だろうか-脳の来歴、知覚の錯誤』 下條伸輔 
 『考えすぎる脳、楽をしたい遺伝子』 長沼毅 
 『解説ヨーガ・スートラ』 佐保田鶴治 

人間科学、生物化学、そしてインドのサーンキャ哲学をめぐって、現在の着地点は、般若心経のサンスクリット語版。昔から気になっていた箇所である「羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶」の発音は「ぎゃていぎゃてい」というよりはむしろ「がーてーがーてー」のように聞こえる。本人としては嬉しい発見である。

そして今日、あらためて「日本超現実主義詩論」と対峙する。題名の「日本」の意味は何かという疑問を抱いたが、上田敏雄は必ずしも文章の内容を題名にする作家ではないからと自問自答。
やれやれ、すっかり振り回されてしまったようだ。