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2016年8月15日月曜日

鶴岡善久の「上田敏雄の戦中戦後」

 毎年8月6日と8月15日は、戦時下を生きた祖父母達について思いをはせる機会をもたらす。

 今日もまた上田敏雄の追悼特集が組まれた『歴象 98』の鶴岡義久氏の「上田敏雄の戦中戦後」を読み返したので、その一部をここに共有しておきたい。

 上田敏雄はいわゆる戦争詩を一篇も書かなかった。これはきわめて重要なことである。
 上田敏雄の詩に関して一文を求められたとき、ぼくはとっさに上田敏雄の戦中のことを考えた。上田敏雄の戦争詩についてぼくの記憶がなかったからである。手元の二百冊をこえる戦争詩関係の資料に全部当たってみた。そこにはいわゆるモダニストと称されていた、村野史郎、安西冬衛、北園克衛らをはじめとするあらゆる代表的な詩人の激烈な戦争詩があった。わが敬愛する滝口修造ですら、悪名高き「辻詩集」に名を連ねている。(むろん滝口修造はいかにも苦しげだしそれを戦争詩と呼ぶことはためらわれるのだが。)その「辻詩集」にも上田敏雄の名前は見当たらない。ぼくはさらに、戦争詩についてはぼくの「太平洋戦争下の詩と思想」をはるかに上廻る詳細なデータに、裏づけられた桜本富雄の「詩人と戦争」、「詩人と責任」の労作にも当たってみた。ここにも上田敏雄の書いた戦争詩の報告は見出せなかった。ぼくは今まで何回か上田敏雄論を書いてきたが、うかつにもこの点を見落としてきた。これは重大な失態といわねばなるまい。ぼくはいちど上田敏雄本人にも会っている。生きているうちになぜ戦争詩を書かなかったかと、これはどうしても問うてみるべきであったと、氏の死を知らされて悔むばかりである。上田敏雄のシュルレアリスム理解については、ぼくはいままでずっと否定的な見解をとり続けてきた。しかし、戦争詩からまったくのがれえたのが西脇順三郎と上田敏雄のたった二人の詩人のみであったことを考えれば、この二人こそ日本のシュルレアリスムの一側面を、二人ながらにシュルレアリスムを逸脱する形で、なを充全に体現した詩人であったのだといえなくもない。 
 上田敏雄がシュルレアリスムの精神を根拠にして戦争詩を否定したのかどうか、ぼくはそれを証明する資料に恵まれていない。しかしなにが上田敏雄をしてそうさせたかは別にして、当時戦争詩を一切書かず沈黙を守り切った事実は、今後もっと注目されねばならないと思う。 <以後略> 
私は、現在この鶴岡氏の疑問に関して追加する情報を持っていないことをここに付記する。私は祖父母が生きているうちに戦争について直接聞いたことがなく、また、私が母に聞いた範囲では、母も祖父母からこの件について聞いたことはないそうである。

 本題からずれるが、個人的な話をすれば、直接言葉で伝えられようが伝えられまいが、先人の生き様を想い、自分の生き方にどう活かすのかが重要だと思っている。山口に居た両親は広島に原爆が投下された時を子供ながらに覚えており、母は東京の空襲も覚えており、私に伝えた。「次の世代に伝えていくことが大切」だと言われるが、伝える目的は、伝えられた私達の世代が行動に活かすためであろう。

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